「ちりとてちん」?
実は落語の演目です。三味線の音色から取られた“微妙な”食材(?)「ちりとてちん」。
噺家の目から見た“食”の話題を取り上げてもらいます。さて、どんな話が飛び出すのやら・・・

「2025年、アフターコロナのエトセトラを報告?します 12月篇」

 

 清八でございます。遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。毎月、「食」に関する書籍・漫画・映画・DVDなど、主に中古品を探しては買い求め、読んだり、観たりして学習しております。それでは、12月分を報告させていただきます。久しぶりの名古屋レポートもあります。

 

 12月16日、久しぶりに名古屋に行ってきました。名古屋市の覚王山(画像①)に(株)松坂屋初代社長の伊藤次郎左衛門佑民の別荘が保存されていて、一般公開されていたことを知りました。時期的に特別拝観は無理だったのですが、当時の迎賓館として使われた「揚輝荘(ようきそう)」を14時からのガイド付きで見学できました。(画像①)地下鉄東山線「覚王山」の1番出口から徒歩約10分。北園は無料ですが、南園は300円必要でした。

 


(画像①揚輝荘)

 

 昭和14年頃には、約1万坪の敷地に地形や周囲の自然を活かして、池泉回遊式庭園とともに30数棟の建造物があったそうです。戦時の空襲による焼失、昭和43年から48年にかけての敷地東部にマンションと商業施設が建設され、2分の3程度になり、再開発の動きが活発になります。平成15年に有志による「揚輝荘の会」が立ち上がり、平成19年に名古屋市に寄贈されます。平成25年に修復工事が完了し、公開されたという事でした。

 今回、ガイドしていただいたのは「聴松閣」という迎賓館で、昭和8年に上高地の帝国ホテルのオープニングに招かれた佑民が感銘を受けて、昭和12件に建築した記録が残っております。地下にあるホールでは演奏会が開催されたり、ダンスホールとして使われたとの説明がありました。(画像②)北園には、昭和4年、鈴木禎次の設計により、尾張徳川家ゆかりの座敷に洋室などを加えて建築された「伴華楼(ばんがろう)」、正にゲストハウスでした。(画像③)桜の時期、新緑の時期、紅葉の時期、都会の真ん中に集約されたような異空間のゾーンでした。また、違う季節に伺いたいと思います。

 


(画像②)

 


(画像③)

 

 さて、覚王山から名古屋駅に戻り、17時に予約していた「天ぷら呑み 小島ん家(こじまんち)」に向かいました。市営桜通線で1駅の「国際センター駅」で下車、徒歩3分?の堀川沿いに、昨年2月3日にオープンされていたんです。

 この店のオーナーシェフの小島さんは、2015年夏に「柳橋市場」場内の4坪のお店「天ぷらとワイン小島」をスタートさせたシェフでした。私は、コロナ禍を除いて、2016年から年に二回は通ってきました。ところが、2、3年前から不在の時が多く、心配しておりました。昨年の9月頃、Instagramで独立されたことを知り、今度の店は日曜日休みのため、平日の17時という開店時間の予約としました。ネット申込時にわかったのですが、平日は飲み放題一人2000円コースがあり、赤星ビールも赤ワインも発泡性ワインもノンアルコールも全て含まれているので、このコースを選びました。今回は、二人で発泡性ワイン2杯、赤ワインをボトルで1本、赤星ビール1本、奥様がカンパリハイボールとウーロン茶でした。

 酒の肴としては、「生牡蠣」(画像④)「温かいシーザーサラダ」(画像⑤)「八丁味噌の土手煮」(画像⑥)、そして天ぷらは「クリスピーな舞茸」(画像⑦)「肉厚しいたけゴルゴンゾーラ」(画像⑧)「カマンベールチーズ」「天ぷら屋の揚げパン生ハム添え」(画像⑨)「ふぐの天ぷら」「あんこうの天ぷら」「生海苔ちくわ磯辺揚げ」(画像⑩)「牡蠣」「さつまいも」など、を二人で堪能して、飲み放題で二人4000円合わせて13,200円。

 


(画像④生牡蠣)

 


(画像⑤温かいシーザーサラダ)

 


(画像⑥八丁味噌の土手煮)

 


(画像⑦クリスピーな舞茸)

 


(画像⑧肉厚しいたけゴルゴンゾーラ)

 



(画像⑨天ぷら屋の揚げパン生ハム添え)

 


(画像⑩生海苔ちくわ磯辺揚げ)

 

■原田信男著「豆腐の文化史」岩波新書赤1999 (2023.12.20) 中古本

 国士館大学名誉教授、和食文化学会会長の原田信男氏による「豆腐」の来歴をまとめられた決定版でした。

 歴史的にみて豆腐がどのように登場したのか詳細は不明とのことですが、中国の文献によれば、41頁に「‥10世紀頃に成立した北宋・陶穀撰の『清異録』巻一官志に、時戢という人物の話が載っていて、‥時戢という人物が、青陽(安徽省池州市)の知事補佐官として赴任した。清廉潔白を旨として人民のために尽くした。その時戢は、肉を食べずに、毎日毎日豆腐数個を買って食べていた。それで村民たちは、質素な副長官の羊肉の意で豆腐を小宰羊と呼んだ。そしてこれが豆腐の異名として知られるようになった。豆腐の製法に関する記述はないが、この時代における豆腐屋の存在は明らかで、すでに10世紀頃には、豆腐が一般に広まっていたことになろう。‥」

 125~147頁「第6章『豆腐百珍』のこと」、に百番目の「真のうどん豆腐」が紹介されていました。「‥予め豆腐をウドン状に切り、煮えたぎらせた鍋を二つ並べて、いっぽうの鍋に網杓子でウドン状の豆腐を盛ったまま入れて熱を通し、温めた器に入れる。これにもういっぽうの鍋から熱湯を注いで、適度な熱さを保ちながら、醤油・酒・出汁を煮返した汁に、大根おろし・唐辛子粉・微塵刻みの白葱・陳皮の粉末・浅草海苔を加薬として食すという手の込んだものであった。‥」(画像⑪)

 


(画像⑪豆腐の文化史)

 

■柏井壽著「おひとり京都の晩ごはん 地元民が愛する本当に旨い店50」光文社新書(2017.3.20) 中古本

 著者は、生粋の京都人で歯科医、食通と人脈により京都案内の著書が多い。また、「鴨川食堂シリーズ」「名探偵・星井裕の事件簿シリーズ」など小説家としても大活躍の文化人です。「はじめに」に「‥京都でおひとり晩ごはんはハードルが高い。身をもって実感し、ひとりでも気持ちよく迎えてくれる店を探し続けた。年間に百日ほどは、京都でひとり晩ごはんを食べる僕が、自信を持ってお奨めできる店を五十軒紹介する。‥」

 142から144頁に紹介されていたのが、二寧坂から路地裏に入った付近にある「洋食の店 みしな」でした。この頁には、何故、京都の洋食が美味しいのか、書かれていました。「‥幕末に活躍した志士のひとりに、坂本龍馬がいる。土佐で生まれた龍馬は紆余曲折を経て、長崎を訪れ、やがて伊良林という場所に居を定め、日本最初の商社といわれる<亀山社中>を結成する。その伊良林の地に、日本最初の洋食屋が生まれたことは、存外知られていない。店の名は地名をとって「良林亭」。開店したのは、鎖国令が解かれてから五年が経ったころ。羽織袴にブーツを履くほどの、ハイカラ好きの龍馬が「良林亭」を見過ごすはずがない。一説には、「良林亭」があったからねそのすぐ近くに移り住んだ、ともいわれている。龍馬が洋食を好んで食べたことは、間違いがなく、史料にも残されている。その洋食好きの龍馬は、翌々年の1865年に京都へ居を移し、様々な事件に遭遇することとなる。このときに『良林亭』の主人も京都を訪れ、それがきっかけとなり、京都で洋食屋を開き、やがてそれを真似た洋食屋が京都に次々出現する。かくして京都は洋食の街ともなり、日本中から客を集めるに至る。京都洋食、黄金時代の幕開けである。‥」(画像⑫)

 


(画像⑫おひとり京都の晩ごはん)

 

■久住祐一郎著「三河吉田藩・お国入り道中記」インターナショナル新書(2019.4.10)中古本

 豊橋市美術博物館学芸員による、天保12(1841)年、三河吉田藩の参勤交代の取りまとめをした吉田藩士・大嶋左源太豊陳の大嶋家文書による記録を紐解かれた貴重な一冊でした。

 86頁に、参勤交代の準備として「‥出発日が近づくと行列のリハーサルをおこなうのが恒例で、今回も出発前日の一七日には開催された。通常は駕籠に乗っているため外から行列を見ることができない殿様(今回は若殿)が、自身の眼で行列を見分することが一番の目的である。信宝はもちろん、あれこれと口を挟んでいた信順も、自らのこだわりが反映された行列を見届けようと隣席した。リハーサルでは行列の並び順や歩き方を確認した。入札で新調した大鳥毛槍をはじめとした武具や馬具も登場してお披露目された。‥」今まで想像したこともなかったけれど、やはり大人数の移動で他藩の眼もあるので、念入りにリハーサルされたのでしょうね。

 101~104頁に、天保8(1837)年に「島原御陣200年記念式典と宴会」が転封先の遠州浜松で行われた。「‥各々の前には、膳に載せた料理が運ばれた。献立は、吸物椀[小鯛とウド芽の味噌吸物]と平の蓋[青竹の串を刺したブリの田楽とカラスミ五切れ]で、膳の端には伏せた土器(盃)が掛けられていた。一同が土器を持つと、世話役の藩士たちがやってきて冷酒を注いでまわり、三献を傾けた。次に熱燗が出され、その一献目が済んだところで、上之間に再び家老の小一右衛門が着座した。小一右衛門は『ゆるゆる頂戴致すべき旨御意遊ばされ候』と一言だけ信宝の御意を伝え、すぐに御次口へと去っていった。その後、波の模様に蓑亀が三、四匹描かれた蒔絵の大盃が運び込まれ、関屋弥一衛門から順番に回し呑みした。‥」(画像⑬)

 


(画像⑬三河吉田藩・お国入り道中記)

 

■佐高信著「師弟物語」 現代教養文庫 (1994.1.30) 中古本

 98~108頁に、故・桂米朝師と故・桂枝雀師の師弟関係が書かれていた。

 「‥米朝に弟子入りして、枝雀はその物言いから直された。林家染丸流の派手な動きに目を奪われていた枝雀は、話し方にもそのクセが出る。『こんにちは』『こっち入りィ』これを枝雀は何回も言わされた。枝雀自身はふつうに言っているつもりなのだが、どうしてもおかしい。『ふつうに言えんか』こう言いながら、米朝は根気強くこれを直した。奔放型の枝雀が、奔放型とは言えない米朝に弟子入りして、キッチリと原型を教えられたことが、現在の枝雀落語が大きく花開く基となっている。‥」「‥枝雀という奔放な弟子を通じて、“隔世遺伝”で、米朝の資質がこの孫弟子に伝わったのではないか。それはともかく、米朝は、その著『落語と私』(ポプラ社)を、自分の師、桂米団治から言われた次の言葉で結んでいる。『芸人は、米一粒、釘一本もようつくらんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へおかえしの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』

 米朝師と枝雀師(小米時代)の噺は、1965年頃から関西系のラジオ・テレビで知り、大ファンになりました。高校生の頃から速記本・レコード・カセットテープ・CD・DVDなどの音源は中古を含めて全点入手してあります。20代の頃は大阪まで聴きに行きましたが、就職後は浜松市内での落語会でお手伝いをさせていただくことによって、生で聴けるようになりました。元の児童会館と市民会館での落語会では、浜松駅との送迎、楽屋番、出囃子のテープ担当など、身近に対応させていただきました。お二人とも故人になられた現在、本当に貴重な体験であったと感謝しております。(画像⑭)

 


(画像⑭師弟物語)

 

■宮嶋勲著「イタリアの『幸せのひと皿』を食べに行く」だいわ文庫(2025.2.15)中古本

 筆者は1983年から1989年ローマの新聞社に勤務、以降、一年に3分の1をイタリアで過ごしている。現在「ガンベロ・ロッソ・イタリアンワインガイド」の日本語版責任者です。

 28~35頁の「小学生もピッツァは一人1枚」では、「イタリアのピッツェリアでは、一人1枚ピッツァを食べるのが普通だ。逆の言い方をすればピッツァ1枚しか食べない。日本のピッツェリアのようにナポリ風の前菜料理がたくさん用意されていて、それを何種類もとり、おつまみにしてワインやビールがたくさん用意されていて、それを何種類もとり、おつまみにしてワインやビールを飲んでから、〆にピッツァを数切れ(シェアして)食べるという習慣はない。‥」とありました。「ピッツァ1枚というと量が多いように思うが、子どもの頃から食べ慣れているイタリア人にとって、ピッツァ1枚はまったく無理のない量である。これは女性でも子どもでも同じだ。‥‥日本人はピッツァ生地を子供の頃から食べているわけではないので、すぐにおなかがいっぱいになってしまう。‥」

 30年から35年位前、毎年のようにベルギーに行っていたのですが、ある年に友人を含めて4人で行動しました。ブリュッセルのグルメ横丁内の「ピッツァ専門店」に入ったのですが、あまりにもラージだったので4人で2枚を頼んだら、店員さんから「あとの二人は注文しないのか?」と言われた記憶があります。店員さんの圧に負けて、一人1枚を頼んでいたら、半分は残していたと思います。

 筆者は、イタリアングルメガイド「ガンベロ・ロッソ・レストランガイド」の覆面調査員を務められた経験から、205~218頁に「レストランのチェックポイントは満載」として、いろいろ書かれていました。「‥大事なことは、シェフの腕がいいからといって必ず成功するとは限らないことだ。むしろシェフの腕は平凡でも絶対成功すると思える店もある。全体の雰囲気の問題である。雰囲気が前向きで、活気がある店は必ず成功する。どこか暗い店は必ず潰れる。‥」(画像⑮)

 


(画像⑮イタリアの『幸せのひと皿』を食べに行く)

 

揚輝荘  
https://yokiso.com/

天ぷら呑み 小島ん家
https://www.instagram.com/tenpuranomi_kojimanchi/

 

2026.1.27 清八





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