「ちりとてちん」?
実は落語の演目です。三味線の音色から取られた“微妙な”食材(?)「ちりとてちん」。
噺家の目から見た“食”の話題を取り上げてもらいます。さて、どんな話が飛び出すのやら・・・

「大絶賛のパン屋さん」

 清八でございます。ごぶさたでございます。
この「ちりとてちん」ですが、2002年頃に「エピファニー」の南竹シェフから当時の水谷編集長を紹介されたご縁からスタートしております。2005年にNo.41「若手料理人に期待して」を書いたことにより、「フラスカティ」の榊原シェフと懇意になりました。「いっ木」が開店された時もご縁をいただいて通っておりました。閉店された「ターバン」は、就職浪人時代から通わせていただき、仲間内のキャンプやバーベキューでは、ラム肉の仕込みをしていただいた記憶があります。就職浪人時代は、肴町に「天竜そばニュー藤屋」の前身「藤屋」蕎麦店があった頃、現在の会長さんたちと素人寄席を第三木曜日に開催していたご縁もあって、現社長さんの家庭教師の仕事をいただき、週一回、晩御飯を食べさせていただきました。まだお客様が入らない時間帯には、蕎麦粉や出汁、蕎麦の茹で方など、将来、飲食業界に入らないだろうと、いろいろと教えていただけました。私が生れ育ち、現在も暮らし続けている新居町内でも、学生時代から懇意にさせていただいている、当時、新居町駅前にあった「喫茶ブルボン」(現在は、新居高校近くの未来屋さん)では、パンやケーキをつくっている厨房に入れていただき、小麦粉や水分量、塩や糖分量関係など、世間話として聞かせていただきました。その時は、飲食業界に入る気も、少しでも関連する仕事をするようになるとは全くその気は無かったので、「ふんふん…」と聞いていただけだったように記憶しています。その後、下呂市上呂の「民宿赤かぶ」のオーナー・尾藤さん、高山市久々野町の「坂本酒店」の坂本親子と懇意になり、うどんの打ち方、しゃぶしゃぶのごまだれの製法、日本酒、焼酎、ワイン、葡萄畑の土壌、ベルギービールなどなど、レクチャーしていただけるようになりました。本当に恵まれた人脈、環境にあったと思います。

 前置きは、この位にして、「フラスカティ」さんのホームページで3月12日号「PANE」を読んで、衝撃を受けました。食事パンについて書かれていました。イタリア時代に、ぱさぱさ、ポコポコのパンに出会ったことから、東京修業時代の自家製パン、そして、この12日に豊橋市内で出会ってしまったハード系のパンの衝撃がひしひしと伝わってきたのです。私は、榊原シェフの文体が好きで、定期的に読んできましたが、まさに隣で喋ってくれているような内容でした。すぐに、シェフに手紙を書き、そのお店を教えていただきました。その手紙の内容をそのまま公開します。

 

 『さて、ホームページからFRASCATI LIVEの3月12日号「パン」読みました。実は、私もパンには興味津々で、新しいベーカリー、新しい商品が並ぶと探してでも購入して確認してきました。毎月のように静岡出張があった頃は、松坂屋地下のポール・ボキューズのチーズブレッドやライ麦のパン、豆パンなどを買占めるように購入しておりました。豊橋市内では、駅前にありました日光金谷ホテルベーカリーのチーズロード、大納言ロールは、閉店まで20数年は買い続けました。いつもワインを取り寄せている高山市(久々野)の坂本酒店さんに紹介されて、高山市のトランブルーにも通っていたことがあります。現在は、トランブルーさんのお弟子さんが浜松市内で営業されている「ブーランジェリーカセル」さん、湖西市鷲津の「ぷらてーろ」さんから買うことが多いです。

 私のパンへの興味は、小学生時代の学校給食まで遡ります。新居町は学校給食が早く、私が入学した1960年代には、コッペパン給食がありました。高学年から食パンになったと記憶しております。ところが、当時の私には不味く感じられ、お腹が空いているから口に入れていた状態でした。何度か、担任の先生に「不味い」と言って、母親が呼び出されていました。当時は、学校を休むとクラスの誰かが、パンを自宅に届けてくれたのですが、家で食べた記憶はありません。子供心に「これは、パンではないんじゃないか?」と考えるようになりました。実家の父は、東京で奉公の経験があり、当時の浅草で買い食いをしていたらしく、町内の飲食店では満足できず、給料日の直近の日曜日には、浜松か豊橋に連れて行ってくれ、当時の支那そばを食べさせてくれ、デパ地下でパンを買って、家で食べさせてくれました。実家には麦畑があって、収穫できると、製麺屋さんに持って行って、生うどんと交換、家で一週間位食べ続けていたような記憶があります。学校給食の前に、このような体験をしていた事もあって、給食パンは不味く感じられたようです。中学生の頃、学校の図書館か町の図書館で、学校給食の事が書かれている本を見つけ読みました。当時の学校給食のパンは、アメリカの慈善団体が寄付を募ってパン用の小麦を購入、日本に送りパン給食になったと書かれていました。ところが、高校生の頃に読んだ学校給食の本は違っておりました。ヨーロッパ、それもデンマーク、ベルギーの女性団体が寄付を集め、アメリカの商社に日本に送るように頼んだと書かれていました。アメリカの商社及び運送会社は、どうせ敗戦国に送るのだからと、牛の飼料にするような下等小麦を日本に送ったのだそうです。日本側の当時の学校栄養士、パン職人さんたちは、その小麦を触ってみて、とても食用のパンにはできないと抵抗したのだそうです。結局、当時の進駐軍、日本政府に逆らった栄養士は解雇、パン職人は雇われなくなって、まったくの素人を募集、進駐軍が手配した、当時のフード・コーディネーターたちが、下等小麦でつくれるパンを全国展開させ、これを標準のパンとした、とも書かれていました。現在、その書籍は手元には無いので、どこまで本当の事なのか、わかりません。私個人としては、高校生の頃から当時の「暮らしの手帖」を愛読していた事もあってか、信じております。後年、といっても13年前ですが、コペンハーゲンに行った時、現地のスーパーで「デンマークの豚肉が戦後の沖縄に、送られて食糧難を助けた」と聞かされました。その時は信じられませんでしたが帰国してから調べてみたら、そのとおりでした。パンの小麦はアメリカの商社に騙されたので、豚肉はデンマーク産にしたとのことです。現在の沖縄県内の市場、スーパーの肉売り場には、デンマーク産が多いのも納得できました。

 いろいろ書きましたが、学校給食パンで不味いと感じたパンの感触を変えたいと、いろいろなお店に行き、いろいろなパンを買って食べるようになりました。記憶に鮮明に残っているのは、西武百貨店が浜松にあった頃で、私が25~6歳の頃、その地下食料品売り場にドイツのマイスターが焼いて販売していたドイツケーキのお店がありました。当時の三立製菓さんがドイツから招へいした方で、三立製菓さんの了承の元、短期間でしたが出店されていました。当時の浜松では売れなかったようで、夕方の時間帯でもかなり売れ残っていました。私は、毎日でも毎週でもありませんが、定期的に通っていて顔を覚えていただきました。ケーキ以外にもライ麦パンやキッシュを焼いてくれた時もありました。私は、この時、初めてライ麦パンとキッシュ・パイ、キッシュ・ロレーヌを食べました。浜松市内では提供していたお店はありませんでした。この当時の事は、「ちりとてちん」を書くようになってから、No.23「キッシュ、大好き」に、このキッシュの事を書いたら、三立製菓の方から情報提供があり、確認できました。

 昨年の10月に八戸・盛岡へ旅行した時には、盛岡のソウルフード「福田パン」を探してホテルの部屋で食べておりました。小ぶりのコッペパンに、その場で、ジャムやバターを塗ってくれ、いろいろな具材を挟んでいただくパンです。豊橋で、時習館高校の近くの予備校隣にあるコンドーパンにあるようなパンです。以上、いろいろと書かせていただきましたが、3月12日のコラムに書かれていたパン屋さんを教えて下さい。豊橋市内なら、すぐにでも買いに行きたいです。』

 

 たいへん長い引用でしたが、私の文章なので許可なく、そのまま掲載しました。榊原シェフからは、電話があり、「熱いラブレター、ありがとう」と言って教えていただきましたが、店名は分からないが場所は教えることができるとの事、場所を伺うと、以前、伺っていたお店でした。もう何年も前だったのですが、当時はご夫妻でカフェとデリカキッチンとパン屋さんでした。いわゆる惣菜パンもあったように記憶していたのです。それが、パン屋さんだけになり、パンの種類も食事パンに特化し、ハード系のみになっていたという説明でした。

 先日(3月24日)、オープンの11時過ぎに行ってきました。場所は、豊橋市公会堂(画像①)の南側です。「かぜのように はなのように」(画像②③)という店名です。菓子パン・惣菜パンはありません。某製粉会社の小麦では無く、ご自身で国内・海外から取り寄せられている小麦・ライ麦を使ったハード系のパンですが、店内に入った途端、小麦・ライ麦の香が漂っていました。店主お一人で、仕込み・焼き・販売をされていて、わかりやすく表現すると、すべて一点物のパンです。毎日朝3時起床で仕込み、薪釜で焼き、店頭に出されているようです。その薪釜は、自作とのことです。横の駐車場に、確かに薪が積んでありました。昨日、私は三種類のパンを購入しました。北海道産小麦を使った「ルルロッソのバゲット」(画像④)、デンマーク産ライ麦を使った「カンパーニュ」(画像⑤)、そして「ショコラカンパーニュ」(画像⑥)です。さっそく、その夜、ワインとチーズ、生ハムでいただきましたが、正に食事パンです。25日の朝もいただきましたが、小麦・ライ麦の香は、そのままでした。カルチャー・ショックを受けるパンです。このお店のHPに掲載されている店主のブログを読んでわかりましたが、元々、パン屋さんの関係者でもなく、専門学校で学ばれたのでもなく、自身で買い付けた小麦とライ麦を焼くための薪釜を作り、配合と水分量を何十回と試作してみて、ご自身が一番食べたいパンに変身させたという経緯です。がん治療者のための「無塩無糖パン」も手掛けられたそうです。国内の大量生産のパン会社さん、菓子パン・惣菜パンで生計を維持しなければ成り立たない、個人商店のご事情は、十分、理解しております。菓子パン・惣菜パンも大好きです。それでも、こんな食事パンのお店が継続されていたのは、驚きでした。ヨーロッパで生活された方、ヨーロッパへの旅行が多かった方、ヨーロッパ系の食事が好きな方、このパンはお勧めです。

 私は、この3月で満64歳になりました。まさか、この年齢の時に近くで、子どもの頃から夢に描いてきた「PANE」を自由に買えて食することができるとは、23日まで信じられませんでした。私が、1981年から新居町内のお寺で続けているイベント・地域寄席ですが、この3月11日の会で、第92回目でした。1983年にフォーク・シンガーの高橋忠史コンサートを企画・開催した時、当時、所属されていた才谷音楽出版社の社長さんがマネージャーの代わりに同行されることになり、打ち上げにも参加していただいた。その酒席で、社長さんから「あなたが、この東京と大阪の中間の田舎で、こうしたイベント・地域寄席を立ち上げて、続けようとしているのは、何か、理由があるのでしょうね?」と何度も言われました。しばらく、その理由を考えていましたが、もう何年も前に忘れていました。今回、このパン屋さんのパンに巡り合ったことで、浜松と豊橋の間に暮らしていて、フレンチ・イタリアン・京料理のお店に出かけられ、素敵なパン屋さんにも買いに行ける、東京と大阪の中間の田舎に暮らしていける幸せ、それが社長さんに答えられなかった「理由」なのでは、と自分勝手に考えをまとめられた一日でした。

 昨年11月5日号で、この「ちりとてちん」は、第160号に到達していたのですが、読者へのお礼や、何のために書き続けているのか、まとめることができませんでした。遅くなりましたが、今回の「PANE」の話で、まとめさせていただきました。

 今後とも、よろしくお付き合いの程、お頼み致します。

 

画像① 画像②  
     
画像④ 画像⑤ 画像⑥

 

エピファニー
https://www.wr-salt.com/epiphanie/home.html

フラスカティ
https://www.wr-salt.com/frascati/home.html

かぜのように はなのように
http://www.kazenoyounihananoyouni.net/

2018.3.26 清八



37年間、お付き合いしている長野市戸隠の森の喫茶店です。


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