うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。


「後輩」

 結局、S君の働く場所はベルン市内のレストランに決まった。

「労働ビザ」がないので、レストランの調理場で働くことは出来ない。仕事をするのではなく、勉強のため見学させてもらうという程度の約束で、給料はないが「食事」と「寝る」ところを与えてもらえるという条件である。エスワイルさんは「少しの小遣いはくれるので」といいながら片目をつむってみせた。
ようするに、「労働ビザ」がないので働くことはさせられないが、勉強のため調理場に入り、そこで「手伝った」から「小遣い」を出してあげようということであった。親日家のエスワイルさんの頼みで、それを引き受けてくれたこの店のオーナーの特別なはからいであった。
私たちが全日本司厨士協会とスイスのホテル協会の契約で研修生として働くことができるのも、エスワイルさんのお力添えがあってのことで、さらに、今回のように勝手に「約束もなし」にやってきたO君とS君のことでもご心配をかけてしまったが、「ダメヨ、コマッタネ‥」といいながらも職場をさがしてくれたのである。
(“エスワイルさん”を参照のこと→バックナンバーVol.33

エスワイルさんが身元保証人になり、S君は市内の有名な時計台(チークロック)の近くにあるレストランに決まったことはありがたいことであった。 O君の場合は、3日間ぐらいの遅れはあったが、エスワイルさんが探してきてくれた。決まったところは、ベルン市内ではなく、チューリッヒよりさらにドイツよりにある保養地であった。ホテルの中にあるレストランで働けることになったが、私たちも行ったことのないところであり心配であったが、O君は元気に新天地にむかって出発をしていった。

地図を広げて、ようやく見つけた場所はベルン市内よりずいぶんとはなれているところであったが、仲間のパティシェリのMさんが以前にこの村を通ったことがあり、「よいところだよ」という一言がせめてもの救いであった。O君をベルン駅まで見送り「とびこんできた日本人」の件は、めでたく無事にすんだのである。

ところが事件はおきた。それから三日後のことである。あれ程、エスワイルさんのお骨折りで働く場所をみつけてもらったS君が、店からいなくなってしまったのである。エスワイルさんの連絡でレストランを訪ねると、シェフは休憩で留守であったが太ったシェフ、ドゥガード(シェフが休憩の時に留守番をしてくれるコックのこと)が汗をふきながら説明をしてくれた。「昨夜から見えないのだよ、元気に働いていて仕事も出来るし、役に立ついいやつなんだ‥思いあたることがひとつあるんだが、ここに働くウェイターのイタリア人と仲が良く「バカンス」でミラノに帰ったので、もしかすると彼についていったのではないかな‥」
いづれにしろ、勝手に姿を消してしまった「S君」に、エスワイルさんの「ダメネ‥」の言葉を聞きながら、責任を感じていた私は無性に腹が立った。

そして2日後、エスワイルさんから「S君が帰って来た。」という言葉を聞き、彼に逢いにいくと本人は元気に働いていた。
私の心配そうな顔を見て「ごめんなさい、ちょっと出かけていました。」といいながら私に近づくと「実はこれに逢ってきたんですよ」と小指を立てた。さらに、胸ポケットから二つに折った「ハガキ」をとりだして見せてくれた。フランス語で書かれた文章の中に「愛」の文字を見つけ「なによ、これは‥」という私の耳元で「ヘ、ヘ、ヘ、トモダチデース」‥とあっさり云う。

聞けば‥いや、聞きたくないが‥説明によれば、日本からマルセイユまでの船の中で○○○○○○ということであった。「コノヤロー、さんざん心配をかけやがってー」どなりつけてやるつもりの言葉がトーンダウンして「うまいことやったなー」とつぶやいた。

「外国にきたら、このくらいの気持ちと行動力がないといけないんだ」と自分自身に納得させた。S君の「先輩、ごめんね」の言葉がやけに元気そうに聞こえた。

とんでもない後輩ができたものである。
 

BackNumber | ホームへ | 三鞍の山荘のページへ



Copyright © 2024 Salt.com All rights reserved.