人は一生の間、実に多くの人との出会いがある。しかし心に滲みいるほど感化され、影響を受ける人は稀(まれ)にしかいない。
日本のフランス料理の父と呼ばれた「山本直文先生」は、“三鞍の山荘”の今井克宏シェフにとってそんな忘れ得ぬ 人のひとり。

「地方のフランス料理店」

写真はイメージです

 二十八歳で帰国した私が、浜松の友人・秋田(純平)さんから誘われ、浜松の成子に新築され結婚式場も兼ねた総合レストラン「オーク」という店に料理長として勤めることになる。帰国したばかりの私には、都会をはなれることに抵抗はあったが、秋田さんに誘われたのが、浜名湖で舟を出して釣りをしている時であった。

 くどかれているとき、やたら魚がつれた。タイ、皮ハギ、コチ、トラフグ、と、次々と別 な獲物がかかってくる面白さ。逆に云えば、ポイントが決まっていないから別 の獲物になるのがわかったのは、浜松に来てからのことであるが…。

 そんな、ウキウキ気分でいるとき、浜松に来ることを承知してしまった。あわただしい開店を無事成功できたのも、友人の川崎(○○)さんが、内弟子を三人も送りこんでくれたり、日活ホテルの土井(○○)料理長が二日がかりで手伝いに来てくれたりしてくれたおかげであった。軽井沢の先生も、奥さまとご一緒に、浜松まで来てくださった。二十八歳の新米料理長が、地方とは云え、大きな総合レストラン、従業員・七十名、調理場・三十名の大所帯をもったのであるから、てんてこ舞の大いそがしさであった。

 一段落がつき、先生のお泊まりになっているホテルへごあいさつに伺うと、「今井君、浜松はまだまだ遅れているねえ。ホテルのロビーを浴衣で客が歩いているし、レストランの中にも入ってくるよ。まず、料理を作るよりお客のマナーだな」。先生は、ひとしきり、浜松のレベルの低さを嘆いていた。このことに私が気がつくのは、やがてオープンした当日からである。優しくわかりやすいメニューを作り、ウエイターをトレーニングし、用意万端でオープンしたのであるが、何分にも外国帰りのプライドがやたらうごめき、無理なことばかりだったのであろう。目茶苦茶なオープンだったのである。

 まず、自分たちが反省すべき点は反省し、なおせば済むことであるが、土地柄というか、おっとりとした気性がなせるのか、予約時間に客が集まって来ない。三十分、一時間遅れは普通 で、それなら「浜松時間だろう」とそれに合わせると、三十分前から来て「食事をはじめろ」という。下の階のレストランは予約なしで食事が出来る軽食風(今で云うカフェテリヤ)のメニューであったが、ハンバーグ、シチュー、グラタンの食べ残しがやたらと続く。残飯ボールに残ったそれらを食べてみても、決してまずくはない。あれ程トレーニングをして皆で納得した料理であったから、なおさら気を重くした。やがてそれが「スパイスの使いすぎ」であることに気がつき、浜松市内で働いていたコックたちをストーブに移し、わざわざ東京から来てくれた応援コックをウラ方にまわした。すると、料理が残らなくなった。シチューは、ケチャップで味つけした「甘ったるい味」、ハンバーグなどはスパイスを控えめ、それにケチャップとデミグラスが半々のソース。これがきれいに食べられていた。ステーキは醤油味。皿につけられた、キャベツサラダのドレッシングは、和風ドレッシングであった。

 このスタートは、私の人生観を変えさせた。先生いわく「大変だよ浜松は」。このとき、先生は料理のことは何もおっしゃらなかったが、都会とははるか離れたこの土地が、何かにつれて遅れていることを「マナーのしつけ」ということで先生はおっしゃった。先生は、普段弱い人たちのことを批評することは一度もない。先生は強者に向って文句を云うことはあるが、それは見えないたちの悪いものに向ってである。

 散々なオープンであったが、応援コックや、地元のコックたちのガンバリが少しずつ発揮できるようになった日は以外と早く訪れたのである。当時、おろし売り団地が浜松市内に出来た。約百五十社ぐらいが争うように新社屋を建て、この新社屋パーティが行なわれたのである。最初に受けたパーティがうまくいったのを、このパーティに出席した別 のオーナーが、当社のオープンは「オーク」でやろうということになり、その注文は次から次へと続いた。終ってみればなんと団地の八十%以上が当店でパーティをやったことになる。

 この成功裏には、営業の人の活躍を見逃すことは出来ないが、全社員一団になって事をやったことにつきる。地方では、コックはたくさん集まるが、サービスをする人がなかなか集まらない。そこで私は、コックを増やし、料理をつくったあと、コートをとり替えウエイターにする。料理作りとサービス、これを両方やらせたのである。多いときには、ウエイターの方にまわるのが三分の二ぐらいになるときがある。結婚式には私も黒服を着て新郎新婦ご誘導をやったりしたときもある。この「全員サービス精神」が功を果 たしたのである。パーティ会場には、必ずモギ店をつくった。寿司、そば、てんぷら、ヤキトリのコーナーをもうけ、それにコックをそれぞれつけて実演させたのである。そして中央テーブルには、フランス料理を食べやすい一口サイズのポーションでプラッター盛りにし、とにかく食べやすさを演出した。その間には、浜松の人たちの好きな「さしみ」や、ゆでた「海老」などをおいて料理がバラエティに富むようにした。やがてパーティが終わるころには、「オークのフランス料理はうまい」というのが、評判になってきたのである。

 結婚式も増え、各種食事会も、「フランス料理を食べる」というムードに変わってきたのである。それは先生が来浜し助言をしてくれた日から三年はたっていたのである。今、山荘を訪れてくれるお客さまの中で、「昔オークで私たち式をあげたのよ。その時の料理長が今井さんだったのよ」。聞けばこの家族連れ、小さな孫まで連れている。親子三代にわたって、再び私の料理を食べに来てくれるのである。

 先生の一言が今も生き続けているのである。

 

山本直文(なおよし)先生のプロフィール
 明治23年(1890年) 東京生まれ
 大正6年(1917年) 東京帝国大学文学部卒業
 大正10年(1921年) 学習院教授
 昭和26年(1951年) 東京学芸大学教授 フランス語講座主任
 昭和46年(1971年) 日本エスコフィエ協会名誉顧問・パリ司厨士協会
 昭和47年(1972年) エスコフィエ名誉弟子
 昭和50年(1975年) 第一回食生活文化賞大賞受賞
 昭和52年(1977年) 殊勲三等(瑞宝章)
 昭和57年(1982年) 歿 享年92才
 フランス語・フランス料理関係の著作・翻訳は多数に及ぶ。

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