人は一生の間、実に多くの人との出会いがある。しかし心に滲みいるほど感化され、影響を受ける人は稀(まれ)にしかいない。
日本のフランス料理の父と呼ばれた「山本直文先生」は、“三鞍の山荘”の今井克宏シェフにとってそんな忘れ得ぬ 人のひとり。

 

「寿司を食べる」

 山本先生と上野の寿司屋に入る。御徒町のうら通りにある店は古い建物で昭和初期のつくりである。土間が広くとってある。ノレンをくぐり、「おじゃまします、こんにちは」とトレードマークのボーシをとった先生について私も店の中に入る。店主とひとしきりのあいさつをする。先生の話は、相手がいればいつまでも続く。先月のあの時がどうしたのとか、内容は、たいしたことがないのだが、相手をする店主は、手をやすめるわけにはいかず、動きっぱなしであるが、定位置に座っても、先生の話は続く。おしぼり、お茶が出されても、先生は、店主に話をかけている。これが先生のいつものことである。
 先生の話はひとくちのんだ、お茶の葉の話にうつる。最近のお茶の出来が悪い、農薬をものすごく使っている、市販されているお茶がそうであって、茶農家の人は自分ののむ分には農薬をかけていない。これは農協が悪い。農協がこの農薬を売っているんだから仕方がない。それを見逃している監督行政が、また、さらに悪い……。先生の話はさらにエキサイトしてくる。店主は、慣れたもので、「そうですね」「そうなんです」と相づちをうつが、先生の話を、うまく聞きのがしている。手持ちぶさたの私は、しょうゆを小皿に入れて、食べる段どりをする。早く一口、口にほおばりたいのである。

すっかり自分のペース
で話している先生。私がしょうゆをついだ小皿をみて、「今井くん、そんなに食べるのかい」「寿司のしょうゆは、自分が食べる分量だけ小皿にとればよい、そんなにたくさん入れるもんじゃないよ」。私はつい、何の考えもせずにしょうゆを入れてしまったのである。食べる分量なんか、考えていないし、そのしょうゆがどれだけ必要かなんか考えていない。寿司屋に入り、寿司を食べる場合、そこまで考えていない。当時十八歳の食べざかり、どんなに食べても食べすぎにはならない年ごろ、じっくりと待たされているからなおさらである。

 先生にあわせてまず、、、たまごを頼む、次はひかりもの、まぐろ、まきものとすすむ。養殖ものは食べない、脂があるものは食べない。オーダーをするものの食材の話が続くから、その話に相づちをうちながら食べるのであるから、一ケのにぎりを食べるペースが、ふつうの二〜三倍かかる。先生は、一通り食べ終ると、「ああ、おいしかった」。私は、荷物をもって先生のあとに続く。レジのところでおかみさんと、軽井沢まで読んでいく本の話をひとしきりしてからていねいにあいさつをし、「では、また、ごきげんよう」とボーシをかむり、にぎやかな通りに出ていく。私は、カウンターの上に残っていた、たっぷりのしょうゆに未練を残しながら先生のあとに続き、軽井沢に帰られる先生を上野駅まで送っていくのである。
 途中、デパートに寄り、「いくら」と「チーズ」を買う。「ロックフォール」は安いものは化学調味料が入っているので、この産地のものでなければ、だめ。いくらは塩がきつくないものはこの店でなければ、売っていないので、ここまで足をのばすのだ、と先生は必ず、その理由を説明してくれる。この話は何回となく聞いている。今ならおいしいものであったら簡単に宅配でとりよせることができる、が、当時は、このような買い物をして、先生は、上野駅から軽井沢に帰っていった。荷物のかばんがやたら重い。先生は必ずアミ棚にのせるように指図した。おろす時の心配をすると、車しょうにホームまでおろさせるのである。それを何年も先生は、くり返しているのである。ホームで見送った私に先生は、「オールブォアール=さようなら」「アビァント=また近いうちに」とフランス語であいさつをして列車が動きはじめる前に、「さあ行きなさい」と帰るのをうながすこともいつもの通りであった。私は、先生と別れると駅前のラーメン屋にとびこんで、寿司屋ですませた、前菜あとの食事をする。「オールブォアール」「アビアント」をくり返し口ずさみながら、先生の発音を頭の中にたたき込むのであった。

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