うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。


「友の出現」

 大きなリュックを背おい、真黒に陽やけした二人の青年は、ほこりにまみれていた。

東京オリンピック後は渡航が自由になり、海外にたくさんの若者が夢を求めて出かけるようになった。この二人の青年もリュックサック以上の大きな夢をもって私たちの前にあらわれたのであった。

「アセクサイ」にをいをあたりにまきちらし、始めて逢う私たちに「だきつかんばかり」に近づいてきた。とつぜんあらわれたこの青年たちにとまどいながら、私は「山本先生」からの手紙を思い出した。
「東京の銀座で働いているO君とS君が、料理の勉強で渡欧するので訪ねていったらよろしく」という内容であった。この手紙に対して、私はすぐに返事を出しておいた。「先生、せっかくの話ですが、スイスでの労働はスイスの政府発行の「労働許可証」がないとダメです。エスワイルさんがご苦労なさって、全日本司厨士協会からの年に2〜4人がどうにか受け入れられる状況なので、余分な青年は送らないでください。必ず、協会を通じて渡欧させてください。」

この手紙が届いたであろうと思っているところに、次なる文面の手紙が届いたのが一週間前であった。
「O君とS君は、横浜からフランスの客船に乗って出発しました。約2ヶ月かかると思います。二人は船の中で「クック」‥先生はコックと書かない‥をしながら行くそうです。マルセイユについてから、働けるところをさがしながら、ヒッチハイクをしたりして語学を勉強しながら行くそうです。たぶん一年ぐらい先になるでしょう。」こんな内容の手紙であった。
この手紙は、たしかに受けとっていたので、やがてこの青年たちがスイスの私たちのところにくるであろうということは覚悟をしていたが、彼らの出現はあまりにも早かったのである。

河崎さんはじめ、他の日本人仲間は働くことの「むづかしさ」を知っているので、全員が「やっかい者」が来たとばかりにこの全責任が私にあるような態度であった。困ったなと思いながらも、とりあえず「まぁ、シャワーをあびなよ」「ゆっくりしろよ」といいつつアパートにつれて帰る。「アセクサイ」シャツは、あまりにもにをうので、ビニール袋にまとめさせる。シャワーをあびてすっきりした二人に、河崎さんが冷蔵庫から「ビール」を出して接待をしている。

いきなりとび込んできた二人の青年に対し、めいわく顔をしていた仲間もだんだんにうちとけてきて、私以上に全員が面倒をみているのである。
性格もあるだろうが、「えんりょがち」なO君に対し、S君はいつのまにやらすっかり仲間とうちとけてしまっている。ビールの酔いもあるだろうが「ちょっと休ませて下さい」といいながら、私のベットにもぐりこんで寝込んでしまった。
「イビキ」をかきながら寝てしまった二人のベットのそばで、「明日エスワイルさんに頼んでみよう。若しムリであったら、しばらくの間ここに泊めてやろう」ということに仲間どうしの相談はまとまったのである。
翌日、エスワイルさんと面接をしたのであるが、エスワイルさんの言葉はいつもよりきびしいものであった。「ダメネ、ハタラクコトデキナイ」の一言であった。また勝手に仲間を呼んではいけないとの約束をさせられてしまった。

全員が暗い気分になり、アパートの一室に集まってのんだその夜のビールは、にがい味であった。
困ったときの仲間を助けようとする私たちの気持ちが通じたのか、エスワイルさんはなんとか許可なしで働けるところを3日後には探してきてくれた。

この二人の青年との出会いが、その後の私の人生に大きくかかわってくるのである。

親友として、悪友として‥‥


 

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