うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。


「出発


※写真はイメージです
 昭和38年9月
 友人や家族たちにまざってフィアンセのM子も加わっていた。羽田空港での見送りは「万才、万才」の大合唱でにぎやかである。

 出発ロビーには2つの輪ができていて、その真中にいるのは、送られる私ともうひとつの輪の中は、一緒に渡米するPレストランのKさんである。

 受け入れ先のスイスのホテル協会は、年間2名づつの研修生を引き受けていたので私とKさんがこの年の派遣司厨士として選ばれたのである。
その出発風景は、今ではとても考えられないことで、当時としては万才見送りがあたり前のセレモニーであった。

 「行って来ます。しっかり勉強して帰ります。」、「3年間は帰りません」

 ・・・・二人とも、ふところには150ドルずつのお金を持っているとはいえ、外国の地で病気でもしたら・・・・大変だ。不安はあるが出発ロビーのこのムードの中では、元気さをフルに見せていなければならない。

 M子には「2年間で帰国する」と言ってあったので「3年間は帰りません」というのはKさんの言葉である。帰国したらすぐに結婚するということは、M子の両親には伝えてあるので「2年間、日本を留守にする」ということで承知したM子としては、この時ちょっと不安な気持ちになったと手紙の中で書いてきた。

 総勢、50人以上の人たちの見送りを背にうけて税関をぬけ、ロビーに入ると、そこは全く別の世界であった。
あせばむ程、にぎりしめていたチケットを係の人に渡し、飛行機への通路で興奮したKさんが話しかけてくる。

 「オレたち、いよいよ日本から出発するんだぜ」、「ガンバロウぜ」とお互いに手をにぎりあった。

 同行する1才年上のKさんとは共に励ましあい、時には兄弟であり、友であり、ライバルとなって4年近い外国生活を共にし、時には職場が変わったりしながらも、帰国は二人一緒になって船で横浜に帰ってくるのであるから、強い絆をもつ相手であった。

 飛行機が給油するため、アンカレージに到着。機外に出てロビーの中を歩く。見るもの、経験すること、全べてが初めてのことである。

 アンカレージからコペンハーゲンへ。コペンハーゲンで飛行機を乗り換え、チューリッヒへ。この乗りつぎは頭の中にしっかりと入っていたので割合いとスムーズにいく。無事チューリッヒ空港に到着。

 「おかしいなー先輩のSさんたちが迎えに来てくれることになっているんだが・・」とKさんのひとりごとを聞きながら荷物を受けとると、そのまま税関の係官の前に立ち「・・・」声をかけられるが、ほとんどわからないまま「・・・」と無言で答える。
手に持っていた“飛行場で見せなさい”という書類が役に立ち、「よーし、通れ・・・」と言ったか分からないが、パスポートを返されるとそのまま出口へと進む。

 普通は、空港から「バス」に乗り、チューリッヒの駅に着くと両替えをする。両替えをしていなかった自分たちにとって、結局バスの料金は「ドル」を見せるだけで「タダ」で乗車したことになる。バスの中でも、運転手との言葉がわからず「もういいよ・・・」、「そうですか、スミマセンネ・・・」というようなわけで忙しい運転手には「困った外人さん」とみられたようだ。

 1回の失敗はくり返すまいと早速、両替えをすることになったのである。

 ベルン行きの切符を買う。「ベルン、ベルン」と何度も相手に言っても通じないようで、仕方なく書類を見せることになる。「なんだ、ベルンじゃないか」というような言葉をつぶやきながら、「・・・・・・・・・」と再びドイツ語らしき言葉で話しかけてくる。
「え・・・あのー何ですか・・・」多少、英語を勉強していた自分たちとしては、このあたりで会話をしなければと発言をくり返すが相手にはまったく通じていない。係りの人は、白いノートに書いたものを見せている。→・・・と←が1本づつ書いてある。
「そうか、行って帰るのか」、そうじゃないっすよ「ワンウェイ」ですよ・・・少しづつ、「わからなさ」に慣れてきたのか、Kさんも英語を使いはじめた「ワンウェイ」の言葉より→だけを指でさしたので、それがわかったようだ。

 どうにか無事、切符を買うことができ、交配のある通路をトランクを押しながらホームに向かう。

 「聞いてみよう」とホームに立っている人に聞くことにする。「ベルンに行きますか?この電車は・・・」というような危ないKさんの言葉に「シー」とか言いながらうなづいてくれた。この際、英語で尋ねて何語かわからぬ「ことば」が返ってきても「うなづいてくれたんだから間違いないぜ」と強気になったKさんは急に動きが早くなった。

 電車に乗り込んだ二人は、ほっとして「タバコ」をとりだし、お互いに火をつけあって顔を見合わせる。前の席には親子づれの「スペイン人」らしい人たちが座っていたので、早速Kさんの国際交流がはじまる。「お父さん」にタバコをすすめると「・・・」いいですと言いながら手をふっている。「吸わないっすか・・」

 Kさんは、あげるのをあきらめながら、子供が指をさす方をみると「禁煙マーク」があった。当時の日本では、禁煙席などなかったから、いきなり国際マナーにひっかかったのである。それにしても「のんびりした電車だった」いつ発車するとも合図がなしに「スー」と動きだし、止まるとしばらく動かない電車であった。

 私たちは「どん行」に乗ってしまったのである。

 

BackNumber | ホームへ | 三鞍の山荘のページへ



Copyright © 2024 Salt.com All rights reserved.