うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。


「草野球


※写真はイメージです
 今では考えられないような事が経験として残っている。

 元の国技館のとなりに、その当時としては珍しい、温泉の中にある職場は、一般大衆とリッチな人たちにも食事が出せるようになっていた。一階には、和食の調理場があり、20人くらいの板前さんが働いており2階に洋食の調理場があった。洋食のコック長は、元ホテルで働いており、ご年配であるが温厚な方であった。このコック長の下に、20才前後の若いコックが3人いるだけの小さな職場であった。先輩の紹介で勤めることになったのだが、居心地のよさがあって、ここは2年間ぐらい働いたのである。

 この職場の親会社が石油関係であったので事務系の人たちには大学卒業者が多く、早朝野球チームがあった。中学時代3年間、野球部の実績がある自分としては、もちろんチームの中に入れていただき、投手として活躍することになる。

 中学時代は外野を守り、6番ぐらいの中距離バッターだったが、成績の方はあまり自慢できない程度であった。しかし、草野球(すなわち早朝野球)のメンバーの中では、エースであり3番を打つのでチームの中においては必要な選手であり、とくに大事な試合には、仕事を離れてもよいという特待生並の扱いを受けたのである。それを許してもらえたのも、優しいコック長のおかげと他の2人のコックが応援してくれたからである。

 食事時になると、「和食」の調理場から「エースに」といって「さしみ」や天ぷらが届くのである。「肉類」を食べさせてもらえるのも、今までの食事事情からすれ天地の違いであった。働く場所が変わり、自分が別世界の生活環境の中に置かれ、うれしく楽しい毎日が続いた。今考えると、外野の守り中心であった自分が、なぜあれだけのスピードと変化球が投げられたのか不思議なくらいであったが、草野球とは云え社会に出てから自分の野球技術が急に上達したのかもしれない。

 おかげで23才からの渡欧で5年間の野球のない生活が続いたが、帰国後すぐに職場に野球チームをつくったのであるから本当に好きであったことに間違いない。自分としては、ずっと続けていたかったのであるが、年齢と共に投手から外され、主力打者にはなれず、監督という名誉みたいな名前をつけられ、ベンチで座る時間が多くなったのを機会に、野球とは自然と離れざるを得なかったのである。

 仕事の他に、野球が出来たりするのは職場の理解があってのことであり、それに答えるためには本職の方もしっかりとやらなければならない。幸いに、仕事に対してはいつも前向きであり、楽しく周りの人と付き合うことができたのも、よい結果がうまれた原因かも知れない。毎日楽しく仕事ができるということで、精神的にも余裕がでて、焦らずに全べをうまく行えたのである。フランス語を覚えようとしたのもこの時からである。外国に行こうと思い始めたのはその後になる。なにしろ、フランス料理の本場に行ってみようということは、あまりにも自分にとっては遠いところの話だったのである。

 

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