うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。



「にんじんのシャトー切り


 昭和29年、この時の私の給料は1,500円だった。この給料の中から野菜などを切るための小さなナイフ(ぺティナイフ)を買った。「自分のナイフを持てば、先輩達のそばに近づいてにんじんのシャトー切り(ステーキなどのつけ合わせについている、フットボールの形をしたもの)に加わることができる」と思ったのである。


※写真はイメージです

 洗い場を全部片付けてしまうと、買ったばかりのナイフを持って近づき、横から先輩達の切っているのを見ていると「やってみろ」と2番さんが1ヶのにんじんを私の手の平にのせてくれた。1本のにんじんを3cmぐらいの長さで切り、それを4等分に切ってある。この小さなにんじんをフットボールのような形に切っていくのだ。見ていたので切り方はわかった。さっそく始める。「どうにも先輩達のように流れるような切り方ができないな、やはり難しいものだ……」と思った瞬間、シェフの皮ぐつが私の長ぐつの足元を思いっきり蹴っとばしていた。突然だったので驚いていたが、シェフは一言「できねぇ奴は切るな」とそれだけを言うと、シェフボックスに入って行ってしまった。蹴っとばされた足首が痛いことより、シェフのこの一言は「教えてもらおう」という自分の甘い考えをいっぺんに吹き飛ばしたのである。習っていないことは出来ない、やった事がないのはわからない。これが一般 的な答えだが、その当時の仕事は見ていて覚えるのが当たり前で、誰も「手をとって教えてくれる」ことはなかった。

  「総あがり」をした前のシェフたち一行が、自分達の仕込んでいたものを「ブタのえさ」のギャベジ缶 に投げ入れていった行動も決して不思議なことではなかったのである。自分達の仕事を誰にも「見せない、教えない」ということが当然だったのである。

 にんじんとの戦いが始まった。 休憩時間に「にんじん」を買ってくると、冷蔵庫の中から先輩の切った「シャトー切り」をポケットに1ヶしのばせてくる。それを「サンプル」にして切る練習である。切っても切ってもうまく切れない……。どうしてもデコボコになる。少ない給料の中から買ってくる「にんじん」には限界があり「さて、困ったなー」と思った時にその丸みが卵に似ていることに気がつく。

 卵を左手に持ち右手のナイフで卵の表面 ををこするようにすると「にんじんのシャトー切りの切り方」と同じ動きをする。暇さえあればこの切る練習を続けたのである。やがて卵の皮の表面 がナイフでこすれて卵は割れてしまう。次に新しい卵を買ってきて、同じことを繰り返す。目をつむっていてもその動きが自然にできるようになってきたのは、はじめてから1週間ぐらいたってからであった。今度は「にんじん」を買ってきてためし切りをする。 以前よりナイフの動きはよいがまだ、フットボールの形になるのはムリであった。

  にんじんのシャトー切りをする先輩達のそばに近づいていき、調理場のゴミをホーキではきながら「見ないふりをして見る」という神ワザの成果 があったのは、ずいぶんと日にちがかかったのである。先輩達には「リズム」があった。切りながら、身体というか上半身がナイフの動きに合わせて上下に動くのである。このリズムによって、フットボールのような滑らかな曲線に切れていたのである。さっそくこの動きを「マネ」してやってみる。始めは切り方がかえって難しくなってしまった感じがしたが、何回か繰り返すと「シャトー切り」がどうにか見れるようになってきた。その後さらに切るトレーニングは続き、自分自身で「よし」と思うまで何回も何回も繰り返したのである。

  いつものように輪になって「にんじんのシャトー切り」をしている先輩のそばに行くと、二番さんが「にんじん」を2ヶ手渡してくれる。震えがくるのを必死にこらえながら切っていく。うまく切れた。次の2ケ目を切り終えると、先輩達の物とは混ぜないで自分の前に置いた。シェフは私の切ったシャトー切りを手に取ると、私を見てから少し笑ってくれたようだが、何も言わずに先輩達の切ったボールの中に2ケを投げ込んでくれたのである。そして、あの「いきなり蹴っとばされる」ことはなかったのである。このシェフともそれから1カ月もたたないうちに別 れたが、「仕事は見て覚えろ」「自分でやるしかない」ということを教えて去って行ったのである。

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