うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。



洗い場のご馳走


 今から40年前、中学を卒業して約4ヶ月の夜学への進学であったが、勉強と仕事の両立は難しく、夢やぶれて飛び込んだ料理の世界であったが、もともと食べることは好きなので毎日が楽しかった。洗い場に立った自分の姿は「ゴム」の前掛けをしてダブダブのゴムのズボン、そして黄色い長ぐつ、白いところはコック服と10cm幅の小さなコック帽であった。この姿は他の先輩たちと比べるとまるで違っていて、いかにも洗い場のスタイルであった。名前を呼ばれずに「オイ」とか「ボーヤ」とかそのまま「洗い場」と言われていたが、先輩たちのまわりを飛びまわって洗い物を片付けていた自分は張り切っていた。食堂での従業員の食事は、中位 のどんぶりに七分目ぐらいのごはん(200gぐらい)、おかずはマカロニサラダ(マカロニ30本ぐらい、きゅうり、玉 ねぎ少々、マヨネーズで和えてある。)これにプレスハムがうすいのを2枚、タクワン2切れ、これがある日の昼ごはんのメニューである。15才食べ盛りの自分にとって量 は少ないがこれ程おいしいものはなかった。嬉しかったし、食べられる喜びを感じていた。それにしても腹は減る、洗い場に流れてくるおいしそうな匂いには、今までかいだことのないものであった。とくに肉を焼く匂いはもうたまらない程腹の虫を暴れさせたのである。

 洗い場は「ナべ」「フライパン」を洗うところと、お皿を洗うところが別 々になっている。すなわち洗い場の流しが2ケ所ある。お客様がお使いになった皿はレストランと調理場の流し台に戻ってくるので自分の仕事は「ナべ」などの他にこの皿をすばやく洗わないといけないのである。洗い物がたまると先輩が「バカヤロウ」「ハヤクシロー」と怒鳴ってくる。しかしそれを言われたのは最初の2〜3日で、こちらが素早くやれば怒られることはなかった。レストランから戻ってくる皿の上には残り物が多かった。とくに肉が残ってくる。しかしこの残り物は食べてはいけないのである。洗い場には3つの器が置いてあって、残り物は決められた器に入れておかなければならない。牛肉の残り物は再び焼いて大きな「寸胴ナべ」の中にほうり込まれる。これはデミグラスソースになる前のフォン(出し汁)を作っているのである。このフォンは毎日漉して翌日又新しい牛の骨や、すじを入れてコトコトと一日中煮込むのである。


※写真はイメージです

 ステーキの残り物がこの中に放り込まれる都度「生つば」が出てくる。また、贅沢なお客様は一番うまそうなところを残してくれる。鉄板にのっているので、洗い場に下げられる時はまだ温かいのだ。ついに我慢できずに一切れのステーキを口の中にほうり込む、噛むとジューシーな今までに食べたこともない美味しさである。一度この味を知ってしまうともう止めることはできない。オードヴルからはじまり、魚、肉まで時にはデザートまで食べることができた。これを食べるには絶対に見つからないことである。見つかったら怒鳴りつけられるか、何か物が飛んでくるかわからない。まさに命がけの試食である。いや、腹へり新米コックの夜のディナーなのである。先輩に聞くとこの残り物は買いに来る人があって、売ったお金がコックの「ヘソクリ」になるらしい。確かに勤めるようになって「小遣い」だと言って小銭をもらうことがあったので、この残り物が(お金)になるのは事実であった。残飯はこれをきちんとしなければならない。爪楊枝1本入ってもいけなかったし、タバコの吸いがらが1本でも入ると「値段」が半分になってしまう、と先輩から注意されたので、これにも気をつけることにしていた。ハイエナのように横から肉を食べてしまうことがバレたらもう大変なことになるので見つからずに食べる。いや、「のみこむ」テクニックが身についたのである。洗い場「ナべ」を洗うところに大きな柱がある。ここに立つと先輩たちのところから死角になって見えないのである。 ここのところを通り過ぎるわずか一秒の間に、肉を口の中に入れ噛んでのみ込む、これをやればほとんど見つからないのである。今の人たちがこれを知ったらなんと「バカ」なことを「いやしいことを」…と言うかも知れないが、小学生、中学生と食べ盛りの者が食べれなかったものがようやく肉の香りやステーキの肉牛を見たら「がまん」をしろ…というのは罪であり神様も「食べなさい」と許してくれる声を何度も聞いた気がする。

 このディナータイムも慣れるに従って「食べるもの」を選ぶようになってくると「味つけ」にまで興味をもつ。ソースの味は、つくる人によって違ってくるのも分かるようになってくるとその作り方が気になってくる。自分の注意は段々とストーブ前の先輩たちの仕事の動きに目がいくようになる。“ハングリーやろー”が一歩前進したのである。

 仕事はますます楽しくなってきた。

戻る | BackNumber | ホームへ | 三鞍の山荘のページへ



Copyright © 2024 Salt.com All rights reserved.