うまい料理を食べることは、人生最良の一場面といえる。 人生を料理に賭けてきた「三鞍の山荘」の今井克宏シェフが語る「Un bon plat」アン ボン プラ(うまい料理)。食卓や料理の話題を取り上げてもらいます。


「フランスへ行きたい


※写真はイメージです
 「協会」の事務所の階段を上がると、そこは未来のシェフになるべき若きコックたちの勉強部屋であり、そして訓練の場であった。

 大学の先生方はノート一杯に質問を書いてきて、休憩時間などを利用して、この若いコックたちに答えを求めるのであった。

 「スパゲティの一種であの細い麺は何と言うの」
 「トリュフの生はどんな味なの」
 「フォグラはどんな料理が一番おいしいの」
 「デミグラスとエスパニョルソースの違いは…」
 「マデラ酒の使い方は…」
 「シャンパンの開け方は」………
 「アボガドの切り方は」
 「パパイヤは…」

………もう質問責めである。

 知っていることを聞かれれば答えることができるが、この時の自分は知らないことが多すぎたのである。しかし、ホテルから来ているN君やK君は何でも答えることができ、いつも話の輪の中心にいた。これを部屋の片すみで見ている自分は惨めであった。―自分の勉強不足はどうすることもできない−話題についていけないのは同じコックとして、これ以上の屈辱はない。

 自分は見習いから一人前のコックになっていると錯覚していた。フライパンで肉や魚を焼く。オムレツを形よく焼ける。スープがつくれる。揚げ物も自信がある。だがそれは料理人としてほんの一部のことであって、まだ半人前にもなっていなかったのである。N君やK君は年令的には一緒くらいだが、その知識は問題にならない程豊富であるし、職場全体が勉強の場になっているのである。それらの知識を知ったうえで、さらに語学を勉強しようとしているのである。

 勉強の場所を移すことだ。やはり良い場所に移ってコックのやり直しだ。そして必ず本場フランスに行くことだ。そのためにはまず、フランス語を覚えること、これが第一で、そのためにも勉強の出来る職場を探すことだ。この気持ちを二度程、ヘルプで行ったレストランKのシェフ、Nさんに話した。Nさんは数年前までOホテルにいたので仕事内容もしっかりしていた。何より若い人の話を真剣に聞いてくれるので尊敬をしていた人であった。

 Nさんは私の「将来フランスに行きたい」という話に大きくうなずき、「これからは外国だ、是非行きなさい。まず勉強が続けられる職場に行くとよい。」こうして紹介されたのが銀座八丁目の千疋屋の2階にあるレストランであった。 これは自分にとって最高のチャンスであった。レストランとしての食材の使い方は他の店にヒケをとらず、チーズ、生クリームなど、当時としては何でも揃っていたし、「果物」の勉強にもなった。職場はフランス語を習うには最高であり、勉強する時間がとれることもうれしいことであった。

 千疋屋はフルーツパーラーとしては有名であった。パーラーで使用するフルーツは日本一の名の通りすばらしいものであり、今までに食べたことのない味覚は大変勉強になったことは言うまでもない。休憩時間には屋上にあがって行き、小さな「携帯ラジオ」でNHKの「フランス語講座」を聞く。「R」ヱールの発音は日本人には難しい。ラジオから聞こえる「R」ヱールの「ル」が「うがい」をする時の「ゲロゲロ」に近い「ゲ」の発音をすると「くび」を天に向けて「ゲー」「ゲ」と音を出すのである。屋上で首をもたげて発音の繰り返しができるのも、よい環境に勤めることができたおかげである。

 休日には「協会」のフランス語教室へ行く。 ―このようにして私のフランス語は、めきめきと上達していったのである。……と思ったのであるが、そのことに気がつくのはそれから3年後、スイスに行ってからである。この独学に近いフランス語の勉強はほとんど通じるフランス語ではなく、日本人の日本のフランス語だったのである。これを3年間続けたのである。

山本先生とのお付き合いは、「協会」のフランス語教室の生徒のメンバーがほとんど居なくなってしまうと、先生の「カバン持ち」をするようになり、先生の上京には出来るかぎりお手伝いをしながら、お話しを聞くのを楽しみにしていたのである。先生も暇をつくっては、千疋屋までわざわざおいでいただいたのである。マンゴやパパイヤは先生の大好物であった。

 

 

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