中学校のゲストティーチャーとして「夢」について話をするのに「1時間」というのはあまりに短い時間であった。生徒に「この続きは私のホームページをみてください」と言って帰ってきた。 中途半場で話が通じないといけないと思い、自宅に帰って私の話をしたことをまとめた。それがこの「夢」です。
諸君、一人の料理人が歩んだ夢を追いながらの人生です。 気軽に読んでいただければ幸いです。

平成17年6月23日、夜


<夢>

 ある中学校の3年生に「夢について話をしてください」という保護者から依頼があった。 総合的な学習の時間にゲストティーチャーとして話をするわけであるが、この種の話は私にとって最適な題材である。 喜び勇んで中学校に出かけたのである。

 学校に着き、コック服に着替えるため保健室に向かう途中、職員室で若い女の先生が給食を食べてるのを見かけた。興味があったので献立について尋ねると「スパゲッティ、ハヤシソース、ポテトのサラダ、にんじん入りのレタスサラダ、それに蒸しパン」であった。 先生から「食べてみますか」と勧められ、蒸しパンをちぎってもらって食べる、若い美人の先生との会話は実に楽しい。この学校は職員室が明るく、広いスペースなので気持ちがよく、このような環境の中で勉強ができる子供たちは幸せである。 そんなことを考えながら生徒の待つ教室へ向かう。

 一同大きな拍手でゲストティーチャーを迎えてくれる。約80名の生徒を前にして話をすることは浜松の調理師学校でいつもやっていることなので、普通 の授業としてそれ程問題はないが、今日の拍手は15才の<中学3年生>である。今が一番多感の時で夢を膨らませる「種蒔き」の大切な時である。私の経験の中でも「悩み、苦しんだ時」であったので、今までにない、話の内容を書いた「メモ書き」を用意しての学校入りであった。私は講演をする時、又調理師学校で話をする時は、原稿からそれた話になるのが常である。今回はそれでは中学生がわかりにくいだろうし、大切な夢についてのことなので、用紙5枚に「びっしり」と内容をまとめての登場だったのである。

 係りの先生が私を紹介する時「今日はイタリア料理のコック長がわざわざ‥‥」という時に「あの~先生、フランス料理ですが」と声をかける程余裕があった。男女半々ぐらいの生徒さんの前に立って話をはじめると「このコック長、何を話しはじめるのだろう」と、一同緊張した顔を向ける。話をはじめて2~3分後に私の話はレールが少しずつ外れていく。「原稿」の内容と「違うよ」と思いつつ話題は別 の方向にすすんでいる。

 話をきれいにまとめるならば、このコックは中学卒業と同時に入って、勉強をして、努力をして外国に行き帰国、料理長になりそのあと独立、自分の店を持ち、3軒の店をやったあと「一日一組のレストラン完全予約制」を成功させ、森町・アクティ森へ。そして翌年三鞍の山荘を開業する、そして12年になる。この内容でめでたし、めでたし、夢が実現したフランス料理コック長のお話でした。‥‥ところがである。このようにすすめたかった自分の気持ちとは別 に、話はどんどんと違った方向にすすんでいくのであった。

 中学を卒業する時まで私は「医者」になろうと思っていたのである。夜学に通いながら勉強をする。職業もいくつか変えながら一学期が終わろうとする頃、仕事をしながらの勉強は大変過酷なことに気が付き、ここで医者になることは「挫折」するのである。この時の私の夢は、労苦して私たち兄妹を育てている母親を喜ばせたいための、今考えれば「絶対になることはできない夢」であったのである。家を出る時に「立派な医者になるよ」と大見栄をきった当時を考えると夢は残酷であった。

 進学を諦めた後、ハローワークに行き、「東京で見習コックを募集しているところがあるよ」と、新聞の切抜きをもらい、「コックなら食べるのに苦労しないよ」という係りの人の話を聞き、いつも腹を減らしている自分にとって「またとないチャンス」と上京するのである。

 今考えればまったく無鉄砲と世間知らずもいいところで、それを実行したのであるから、知らないということは恐ろしいことである。 しかし、世の中うまくいったもので、この「上京」がその店で働くきっかけとなったのである。その日の面接は苦労人の社長が一人ずつ会って話を聞き、たくさんの募集の中から数人を選んだのである。あとで知ったことであるが、実に数%の就職率であった。この店に入れたことが私のコック人生のスタートである。見習コックになると、ここで私の小さな夢が少しずつ膨らんでくる。仕事を覚えたいという気持ちが自分の技術を向上させ、ナイフを持って「切る」作業や、フライパンを使用しての仕事など、次から次へと身体全体でぶつかっていった。蹴飛ばされたり殴られたりしたこともあったが、それは仕事の未熟さのための「叱咤激励」であって、愛のムチとありがたく受け入れたのである。 何軒かの店に移り渡り歩いたのも、仕事をさらに覚えるためであった。友人も出来、先輩も出来るとそこからの誘いもあったからである。

 職場を変わることによって新しいことを覚えることが出来るということは、夢が膨らみ、そしてはじける風船を膨らませて割るようなもので、たくさんの風船が膨らんでは消えていったのである。

 19才で恋人ができる。やがて結婚相手としての夢は「大きな農家の娘さん」が第一条件であった。偶然にもその条件が満たされた。「大きな農家の娘」であることを知った時は、神の存在を知ったのである。なぜ農家にこだわったのかというと、戦後食べ物がなく、食べられなかった時代を生きた者だけが感じる「食べ物へ」の、特に白いごはんを食べたいという「気持ち」がこの夢を膨らませたのである。この女性が今の妻である。その後ヨーロッパに渡り、修行して帰国する約5年間、結婚を待たせたのであるから罪深きものであったのかもしれない。だが結婚式は藤沢の教会で5年後に行い、神に誓い感謝したのである。彼女に助けられ、渡欧費用が貯まるとコックの団体である全日本司厨士協会の青年司厨士派遣のメンバーとして選んでいただき、早い時期に渡欧できたのは幸運であった。

 外国で勉強をしたいという夢は、いくつかのハードルを越えねばならぬ 困難もあったが、周りの人たちに助けられ実現したのである。約5年間、語学の勉強をしていたつもりであったが、フランス語を話せるまでになるということは大変なことであり、日本にいての語学の進歩はほとんど無いに等しいことであった。

 ドイツ語を主として話すスイスのベルン市が最初の目的地であった。この地区は、スイス・ドイツ語を話すから正統のドイツ語ではない。ノドに絡まってツバと一緒に口から飛び出す発音は、日本人の私たちにはほとんど通 じなかったのである。スイス人の知識人は3ヶ国語を話すといわれるように、私たちにはフランス語そして英語で話かけてくれるが、所詮私たちには通 じないので、両手を大きく広げ「お手上げ」とあきらめてしまう相手に「もう一度、もう一度お願いします‥‥」と食い下がっていった。仕事の合間に語学の学校に通 う。個人レッスンだと費用が高いので日本人の仲間4人で習いに行く。仕事で疲れ、そして精神的にクタクタになっても、このレッスンは一年間は続けることが出来た。それは「話をしたい、自分の思っていることを言葉に出して相手に伝えたい」という「願い」が奮い立たせたのである。

 2年目になると、職場がジュネーブ・レマン湖畔・コペの町のホテルに移る。周りに世界の富豪や国王の別荘があり、いくらか暗いイメージのあるベルンから明るい所に来たという感じがした。言葉も通 じるようになってきたのも、気持ちをリラックスさせた事が良かったのかも知れない。精神的に楽になると、仕事へのさらなる向上の夢は広がり、料理から菓子、パン、そしてワインの勉強へと進んでいくのであった。 職場での契約をしながら他の店へ行って勉強してくるのを認めてくれた、コペのホテルのご主人「ゴットローさん」には頭が下がる思いで今でも深く感謝している。短期間であったが、菓子店、そしてパン屋のご主人たちにもずいぶんと可愛がってもらい、仕事を教えていただいた。

 特に当時、フランスでは働くことは出来なかったため、フランス・ジュラ地方のアルボワにあるホテル「ドゥ・パリ」のご主人「ジュネー」さんには、約一年近くに渡ってお世話になったのである。1964年度のワインのMOF(チャンピオン)である「ジュネーさん」は、暇を見ては車に乗せてワイン畑やワイン生産者のカーブ(倉庫)に連れて行ってくれて、ワインについて勉強をさせてくれたのである。夢が実り、いよいよスイスに帰る日、ジュネーさんが渡してくれた紙袋の中に、私が働いていた日の分の給料がそっくり入っていたのを見た時は、戸惑いながら「無給の約束では‥‥」というと「IMAIの仕事は、お金になる」と言ってくれた。この時の言葉はいつになっても忘れられないうれしい思い出となって残っているのである。 怒ったり、泣いたり、笑ったりした修行という名の渡欧生活は、膨らむ夢をその都度、実ったりつぶれさせたりして続いたのである。

 28才で帰国。スイスの仲間の一人が浜松にいて、この友人の誘いで浜松の大きなレストランの料理長になる。「浜松にはフランス料理店は根付かないし成功しない」と噂をされる中、11年間無事に勤めることができた。1972年フランクフルトで行われた世界料理オリンピック大会に日本人チームの一員として出場、「優勝」したことやテレビなどに出演したことも自分一人ではなく、常に周りの人たちに助けられて実現した夢であった。

 やがて独立。自分の店として営業するレストランは決して順風満帆とはいかず、苦労はするが、それはまた楽しみであった。 不運にも水害に遭った時をきっかけに場所を移して開店する店を、「一日一組、完全予約制レストラン」として営業をはじめる。料理をつくるのもサービスをするのも、自分が全てやりたいという願いを込めて始めた店は、テレビの取材もあり、「ドキュメンタリー」で1時間全国放送となった。この日を境にして、3年先までも予約が入るようになる。そのころ始めた料理教室は、毎日が満席で、順番を待つ人が出る程にぎわったのである。 夢が実現すれば次に何かを求める。それがエネルギーとなって別 の夢に結びついていくのであるが、そこに結論をみたのは閉店したいという願いであった。

 せっかく「繁盛」しているのに「なぜ?」と言われたが、何年も先が予約されるということは「今日は終わる」という感情で仕事する「ただ片付けた」というこの気分に耐えられなかった。 閉店の理由に「田舎に行きたい。そして野菜づくりや素材づくりをしながらレストランをやる」というとんでもない、無理やりとってつけたようなことを言っての、次なる夢への挑戦であった。

 これがまた、周りの人によって実現するのである。「候補地」はいろいろとあったが、そのひとつ、森町の行政からの話で「フランス料理・今井」が浜松から森町「アクティ森」の中に移すことができたのである。「隣接」する森のレストランの経営もすることになり、従業員もパートを入れて15~6人になる。順調なるスタートを切り、翌年には「三鞍の山荘」をオープンする。これはせっかく森町にきて食事をした人たちが、車や電車ですぐに帰ってしまうのを見て、「ゆっくり泊まっていってください」という気持ちからつくられたのである。「フランス料理・今井」のお客様は相変わらず遠方から来てくださり、マスコミにも常に紹介されてにぎわったのである。森のレストランは120席のフロアーなのでたえず団体客がバスでやって来て、スタッフも忙しく働いたのである。

  森のレストランのコンセプトは、「和食…おふくろの味」、「洋食屋の味…カレーライス、ハヤシライス」、「世界の味…炭火で焼くステーキ料理」、「サラダコーナー」、「お茶コーナー」があり、流れをスムーズにするため、セルフ的な方法をとった。始めは戸惑うお客様もいたが、リピーター客が増えるにしたがい、この方法がごく自然に受け入れられるようになった。 「アクティ森」への来客は開店して6年程は忙しい毎日であったが、バブル崩壊により減少の一途をたどるのは、このような施設の定めであった。

 「三鞍の山荘」は夜お泊りいただく方のみの営業なので、昼間は「アクティ森」、夜お泊りであれば「山荘」をオープンするというぐらいの内容であったのと、「山荘」を建てる夢が実現したあと、「次はどうする」といういつもの夢は「海」で何かをという方向に進んでいくのであった。 バリ島に決まったのも、「海を見る」という私の注文に旅行ツアーの人がスケジュールの中で「バリ島」を選んでくれたので「のんびり」と出かけたのである。

 「本」を読もうと5冊程持っていったが、バリ島のあの雰囲気の中では気持ちを集中する気分になれず、ただ「ボケー」と一週間をすごしたので読書はほとんどせずに、滞在したホテルにあげてしまった。 休日をとる、余暇を楽しむということを従業員にも勧めているので、このバリ島行きにも2人のスタッフが同行した。彼らもバリ島でのバケーションの過ごし方を気にいってくれたのである。

 ところが食事が「まずい」ため、食事をする都度文句を言った。朝食のバイキングにも文句を言い、昼・夜の料理にも「こうすればおいしくなるよ」とホテルのスタッフに言っているのを、支配人が聞き付けたのである。このホテルには日本人の女性スタッフが働いていて、この人と暇を持て余していた私は、自己紹介をしたりしていたので、この女性スタッフから私のことは知らされたようだ。偶然にも日本で私のことをテレビで見ていたというスタッフは、こと詳しく説明をしたのである。支配人は早速私を呼び止め、「日本の有名なシェフとは知らず失礼しました。失礼ついでに、このお泊りの間だけでも少しアドバイスをいただけないだろうか」と、通訳を兼ねた日本人スタッフを通じて申し込んできたのである。毎日することなく、バカンスはこんなものだろうと気を抜いていた自分にとって、「仕事への意欲」を目覚めさせてくれたのがうれしくなり、このホテルの料理長を紹介され、話をしていると「次はいつこのバリ島に来てくれるのですか?」という言葉に「来月くるよ・・」と簡単に答えてしまった。

 バリ島でレストランをやる、こんなことが実現した瞬間である。「暇な日を選んで知らせます」「その時の滞在費用はホテルが出します」という話がまとまり、その後バリ島行きは月に一回のペースで14回程続いたのである。 旅行ツアーの方でも「今井シェフ」がいるホテルを紹介する、そしてその料理が食べられる日をスケジュールに組んでお客を送り込んできたので、ホテル側にとっても良いことであった。「アクティ森」のスタッフも順にバリ島に連れて行くことにしたので、皆楽しんでくれた。スタッフの中には3回、4回と行く者がでてきてバリ島のホテルのスタッフとも、すっかり仲良くなったりした。

 私には、大きな夢が膨らんでいた。それは日本に「洋食」というものができたように、このバリ島で何か新しい献立をつくろうということであった。食事の「まずさ」は現地にある日本料理店、そして自分で作ってみたハンバーグやカレーライス、ハヤシライスなど全てがおいしくなかった。料理作りをしているうち、その難しさの原因に気がつくまで時間がかかったが、日本からのツアーの人たちは、おなじみの日本の洋食、おふくろの味をそれなりに喜んで食べてくれていたので、「まずさ」の原因がわかった時はガクゼンとした。それは、インドネシア・バリ島の「野菜」のまずさと気候にあった。バリ島でも海から離れたウブ島まで行けば涼しさを感じられるが、私の泊まっているホテルはクタ島にあり、日中の暑さは40度を越えるような高温と、それを避けるために旅行者はクーラーの効いた部屋の中に入るので、その温度差だけでもう食欲がなくなってしまうのである。このなくなった食欲を冷たい飲み物でおぎなうので、ますます食欲がなくなる。なんとか食べようとする時、日本で慣れ親しんだ洋食やおふくろの味は「味気のないもの」になってしまうのである。 やはり暑い所では、スパイスのしっかり使われたものでなければおいしくないのである。それはバリ島のコックの作るスパイシーな料理が一番なのである。こう気がついた時、バリ島行きの興味が半減したのである。 バリ島は一生に一度行けばよい。時折、支配人から「次はいつくるのか」と言う手紙はもらったが、私の気持ちはバリ島から遠のいていったのである。

 バリ島が好きでなくなった理由に、季節感がないことがある。「冬」木々から葉がなくなり、あの枯れた景色が私は大好きだ。「春」それが芽生え緑になると、全てが生き返っていく様を見る事ができる。「夏」暑くとも2ヶ月ぐらいで終わり、さわやかな「秋」を迎えることができる。これはすばらしいことである。こんなすばらしいところに、自分たちは「山荘」を建てたのである。もっと真剣にこの仕事に取り組まなければならない。この思いは、バリ島行きをあきらめるのに充分であった。それからの私は「三鞍の山荘」への思いが一気に膨らんできた。「オーベルジュ」としての立派な施設を持っているので、それを活かせることは本腰を入れることだと、あたり前のことが私にやる気を出させたのである。

 「三鞍の山荘」に力を入れるということは「アクティ森」を離れるということであった。「アクティ森」の仕事を共に始めた森町の行政の人たちも、ほとんど定年を迎えて辞めている。これも辞めるための引き金となったが、気持ちよく辞めることができた。いよいよ「三鞍の山荘」オーベルジュ(フランス語でハタゴ)に本気になって取り組むことになる。 昼もランチをやる。場所柄、相変わらず予約をしていただくが、ランチは一人でも受けている。夜のディナーも、食事だけでも受けることにした。「山荘」のスケールは、食事で50名、泊まりも40名はできるので団体客も来るようになる。「三鞍の山荘」へ全力投球となると、リピーターが増え、客数もこの約2年で2倍になる。ツーリストからの問い合わせや、雑誌の取材も「今井」ではなく自然の「山荘」をクローズアップしてくれたおかげで、予約や問い合わせがひっきりなしにかかってくるようになった。

 看板から「今井」が少し外れることは、私にとってうれしいことで、それだけまわりの自然が勝っていることである。俳句を作るグループ、絵はがきを書く趣味の会、「しょうぎ」、音楽などさまざまな集まりや、同窓会、特にご年配の方たちの集まりが多くみられるようになった。今や、80才前後の方たちのクラス会があたり前に開かれ、その時の先生も参加するということが実際にあると、今後ますますのリピーターがみられることになる。

 思えばフランス、アルボワのジュネーさんのところで修行している時、自家農園があり、鶏がいて、牛や馬、ヤギがいて、ミルクやタマゴ、スパイスなどがごく自然に手に入ってきた。今、日本で話題になっているスローフード、これがあたり前に行われている事をすばらしいと感じ、いつの日にか自分もそんな店をつくろうと思った夢の「オーベルジュ」が自然の成り行きの中で仕上がっていたのである。

 この仕事をするのに何が一番満足する喜びがあるかというと、それは「暇」がとれることである。お客様との接点のある食事時をのぞけば、あとは自由になれるのである。部屋に戻りシャワーをあび、本を読み、このようなホームページへの書き込みもできる。また、学校や集会に出かけ、自分の経験や夢などを話すことができる。地方に旅をして、そこでこの集会をやることもできる。出かければそこには美味しいものがあり、人とのふれあいがある。これら全てが次の私の夢に広がっていくのである。

「夢・・・それは小さなことであっても、それの持つエネルギーは大きく膨らむものなのである」

「夢を持とうよ、そして人生を豊かにしようぜ」



浜松 食 コミュニケーションサイト


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